タイトル『母には内緒で』
普段温厚な父が怒っていた。ぼろぼろになったランドセルについてだ。
「どうしてこんなになってるんだ?」
強く責めるような言い方ではなかったが、どこか迫力のある物言いだった。
何度も投げられたり振り回されたりですっかり両肩がくたくたになったそれをみて、ぼくは何もいえずただ目線の置き場をさがしていた。
「いじめられているのか?」
少し心配そうな声色で問いかけてきたので、慌てて否定する。
「友達と投げあいっこしたり…ごめんなさい」
それを聞くと、声を荒げるでもなく少し考えている様子だった。
「手提げでも十分入るから、もう使わないと思って、さ」
そう言い訳するや、しまったと思った。予想通り父は強い口調で返答する。
「買ってもらったものだろ!」
ぼくは今度こそ黙ってしまった。小さいころから教えられてきた”モノを大切にしなさい”という教えが、あとになって頭の中をぐるぐると駆け巡るばかりだった。
どれくらい経ったかわからないくらい、ぼくと父の沈黙は続いた。
「お茶でも飲むか?」
やがて口を開いたのは、父からだった。いつもの優しい声だ。
ぼくはかろうじて、「うん」とだけ返事をし、父の向かいの椅子に座る。
父は少し待ってろとぼくに言って、冷蔵庫の奥から缶ビールを取り出した。
「母さんには内緒だぞ」
父の顔はなぜか少し嬉しそうだった。
どうしていいかわからずじっと座るぼくをみて、父はグイっとジェスチャーをする。飲めってことなんだろうか。
「ぼく、まだお酒は飲めないよ」
ぽかんとしているぼくをみて父も一瞬戸惑ったようだった。それからハッと気が付いたようで、「お茶持ってくるの忘れてた!」などといって、また大急ぎで冷蔵庫にもどる。
それがあまりにもおかしくて、ぼくらは大笑いした。
麦茶をもって改めて乾杯。ぼくはコップ一杯の麦茶を一気に飲み干した。
「ははは、喉乾いてたんだな!」
そういって父もまねっこのようにグイグイとビールを飲み干す。
よほどおいしかったのか、父は続けざまに二本目をとりだしてテーブルの上におく。ぼくは心配になって、「お母さんに怒られちゃうよ」といったものの、どうやらまじまじと缶を眺めるばかりで一向に飲むつもりはないらしかった。
「おまえもビールを飲めるようになったらなぁ」と父がぽつりつぶやくが、それがあまりにも寂しそうで、ぼくはなんだか申し訳なくなった。思えば父がお酒を飲む時はきまっていつもひとりでいるときだ。こんな風にして語らうことはなかったから少し不思議だった。
「お父さんはなんでごはんのときにお酒を飲まないの?」
思い切って積年の疑問をぶつけてみると、父は頭をポリポリとかいて昔話をしてくれた。
「マサキおじさん、覚えてるか?」
もちろん覚えている。おじさん、というには父よりも二回りほども年上で、ぼくにとってはおじいちゃんというほうが正しいだろうか。うんと小さいころにたくさんかわいがってもらった記憶がある。
「おじさんとはかれこれ20年くらいの付き合いでな、出会ったのは25歳のときなんだ。」
「昔はしょっちゅう一緒に飲んでいたんだがな…」
マサキおじさんが亡くなったのはぼくが小学1年生の頃だ。人が死ぬっていうのがどんなことかぼくにはまだわからなくて、でももう二度と会えないっていうことだけ教えられたのが、幼いながらにも覚えている唯一の法則だった。もう会えないから、もう一緒にゲームをすることもなくなって、それが寂しかった。
「マサキおじさんはおれにとって一番の友達で、でもお父さんみたいな存在でもあって、大切なことをいろいろ教えてもらったんだ。”モノを大切にしなさい”っていうのはおじさんの口癖だったんだぞ。」
背筋がピンとなる感じがした。視界の端でぐでっと横たわったランドセル、おじさんが見たら悲しむだろうな。ぼくはランドセルを学習机の上に置きなおして、もう一度父の前に座りなおした。
父はうんと頷くと、また思い出をひとつひとつ拾い上げるようにこんこんと昔話を続ける。
「当時おれは働き口がないままずっとアルバイトで食いつないでたんだが、一緒に住んでいた彼女とはそのことでよく口論になってな。喧嘩ばっかりだったからほどなくして家を追い出されちゃったんだ。」
「まだ秋ごろで過ごしやすかったのが救いだったが、帰る家がなくなったおれには行く当てもなくてな。もうどうにでもなれって気持ちさ。空でも飛べたらな、なんてくだらないこと思ってた時に出会ったのがおじさんだったんだ。」
難しいことはわからないが、どうやら父はその当時ずっと独りで寂しかったようだ。なにをするでもなくてただ座ったり立ったり、たまに歩いたり。そんな折に、同じように生活していたおじさんに出会ったのだという。マサキおじさんも父同様に家がなかったが、手先が器用でたまに拾ったガラクタを修理しては売ってといった形で日銭を稼いでいたようだ。
「”若いのになんて顔してやがる”っておじさんが最初に話しかけてきたんだ。そのうえ”寒いだろ”って、段ボールでつくった家にまで入れてくれてな。そこで、缶ビールをもらったんだ。」
「思えば情けない話さ。ちょっとうまくいかなくなったからって勝手にへこんで、ほかならず自分で負け組だなんてレッテル張りをしては生きるのをなげだして…」
「そんなおれの話も、笑わずじっと聞いてくれたんだ。それがほんとに嬉しくてな。」
負け組…。その言葉を聞いて、学校の先生の言葉がふと脳裏をよぎる。
”いまは人生100年時代、競争こそあれども明確な勝ち組や負け組なんてのはあったものじゃないです。自分が大切だと思うことに時間をつかいなさい”
父のまっすぐな眼が少しくすぐったく感じる。
「マサキおじさんはどうしてずっと外で暮らしてたの?」
ぼくは素朴な質問を投げかけてみたが、父の返答はただ”わからない”とあっさりとしていた。お人好しなおじさんのことだから、おおかた人間関係のトラブルにでも巻き込まれたのだろうということらしかった。
「気になって訊ねたことはあるが、話をはぐらかされてな。詮索されたくないことだったんだろう。ただ、おれみたいななにもない若造に対してもいつでも誠実に向き合ってくれた。だから信頼できる人だと思ったんだ。」
ぼくはそうかなと思ったが、黙って父の話を聞いた。
「まぁ、路上暮らしの人間を信頼するっていうのは変かもしれないよな。」
父はぼくの疑念を代弁するように前置きし、”それでも”と続けた。
「それでも、おじさんはよくモノを大事にする人だったんだ。おじさんの口癖には続きがあってな、”モノを大切にできない人間には、周りの人間も自分自身も大切にできねえ。一度壊れちまったらもとに戻せねぇもんもあるのによ”ってな。」
「実際、外でずっと暮らしてはいたがおじさんの恰好はみすぼらしいものなんかじゃなかったんだぞ。小綺麗っていうにはほど遠いんだけどな。」
父はすっかり嬉しそうだ。ここまで聞いて、ぼくもようやくマサキおじさんがどんな人だったのかわかった気がした。もしかしたら生業のガラクタ修理にしたって、ただ手先が器用だからという理由だけでしていたわけではないのかもしれない。
「お父さんはそのあとどうしたの?」
「ん、まあ時間はかかったが、日雇いバイトでためたお金で安いアパートを借りることができたんだ。おじさんとの公園生活は1か月くらいだったかな。」
「最初は渋ってたけど、おじさんとも少しの間だけアパートで一緒に生活したんだぞ。雇ってくれるところが見つかった時は焼肉なんか食べたりしてな。実はそこで働いてたのがお母さんで…」
ここまで言いかけて、父はそそくさと食卓のあれこれを片し始めた。
「ねぇお父さん、続きは?」
逸るぼくにたいして、父は人差し指を口の前に立ててシーと合図した。もう寝ないといけない時間みたいだ。
「またお前が大人になったときにでも、な。」
そういう父の手には、すっかりびしょびしょになった缶ビールが握られていた。
ぼくはまだ納得がいかなかったが、なるほど父の言っていたことがわかった。あとの話は大人になった時にまたゆっくり語り合うとしよう。
この年の春、僕は小学校を卒業した。
アルバムはまっしろなまま、だけどランドセルにはみんなからのたくさんの寄せ書きがのこしてあった。もう使わないから、なんていわない。思い出をたくさん詰めたぼくの大事な宝モノだ。
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応募したときの原文ママです。
いろんな人に感想聞いたけど結局ほとんど手直しできなかったですね。
一部を修正するのにも全体を見返す作業が必然となります、創作って根気いります。
こうやってたくさんの方々に読んでもらえたなら、この作品も少しは浮かばれるかな。
ともあれご覧いただいてありがとうございます。
感想などなどもらえると嬉しいです!